遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

心の闇に落ちる。

 調べたいのに体調的に調べられないが、確か山崎豊子は『白い巨塔』で財前五郎のことを「新進教授」と書いていたと思う。新進気鋭の若手教授という意味だが、昔、慶應義塾大で、訳あって当時の新進教授T氏の夏目漱石に関する講演を聞いたことがある。ちょうど就任記念だったのかな?

 "Critical Reasons"というタイトルで、文字通り漱石を批判的(critical)に語るという主旨だったのだが、何も全然、批判的なことは言わず、「"critical"という言葉には『危機的な』という意味もあり、漱石を批判すると言うのは危機的なことであります」などと言う。隣に座っていた慶應の学生は、わざとT氏に聞こえるように椅子を蹴っ飛ばして出ていった。

 さて、こんなことを冒頭に書いたのには理由があって、私も、"critical"という言葉ではないが同じような言葉を使いたくなったのだ。我曰く「心の闇といいますが、闇とは全く見えないものであります」。というのも、神経が持たず、毎日、このBlogを力を振り絞って書いているが、もう限界に近い。

 相変わらず夜もろくに眠れず、朝も午前4時に滝のような汗というより水の中にいるように汗をかき目が覚める。Fitbitスマートウォッチによると、体調が良いときには2時間を超えていた「深い睡眠」は、今日は既に5分になった。そして、またすぐにジリジリした感じが始まる。時間が重い。

 そして、もう外の刺激すべてに対してビクビクしている。今日は訪問看護があったのだが、看護師さんが来る時間は知っているのに玄関ブザーを鳴らされてドキッとする。そして、看護師さんに同行してもらい、やっと週に1度の買い物に行けた感じだ。

 このBlogも、神経が持たないので、実は昨日のように朝からリアルタイムで書こうかと思った。ただ、冗長だろうなぁ、途中で投げ出す読者の方が多いだろうなぁと思った。しかし、昼、Google アナリティクスを見てみると、きちっと平均2分かけて読んでくださっている。

 ちゃんと読んでくれるのなら朝からコツコツ? 書いただろうし、読む人の要望に応えるのがライターの使命というものだ。かつて、私の旧Blogを「超絶文章力で綴られる鬱の日々。命と文学を発信中。もっと評価されて良い逸材ですよ。」と評してくれた人がいて、それが今も心の支えになっている。

 それが、今は、ほとんどの時間、横になってスマートフォンを見ることしかできない。何とか昼過ぎにスマートフォンアプリで朝の連続テレビ小説を観たが、スマートフォンを横向きにしてフルスクリーンで観ると、もうイライラする。縦位置の小さい画面で観て、やっと刺激が丁度よい。

 イライラして耳鳴りが酷い。冷や汗が止まらない。今でも脇の下が汗に濡れて冷たい。耳に水が入ったときのように音が頭に響く。食べ物を落とす。横になってFacebookを見ていて記事広告でカーレースが出てきたのだが、リンク先の動画に飛ぶと、もう10秒も画面に動きがないと神経が持たない。そして、運転しているドライバーの気持ちになり、あぁ、車の運転なんてできないと思う。

 そして、もう、Facebookの投稿ひとつも読めない。Twitterのツィートも、長いものだと読めない。ふと思い立ち、5ちゃんねるを見てしまった。昔、私のことをボロクソに言っていたブロガーが、今は失業して木賃アパートに住んでいるという。そして、それが5ちゃんねるで話題になっているという。

 けっこう、スレッドは盛り上がっていたが、あれだけ驕っていたのに堕ちてしまってざまぁみろいうことを言葉を変えて繰り返しているだけ。なんか非常に時間を無駄にしてしまった気がする。かといって、他に何もできない。もう死にたい…。そして、ジリジリしていたまま1日が終わった。

 今日の命の危機は70%。朝、今日、来る訪問看護を考えて、この人が担当で良かったと、あたかも終の担当のように思ってしまった。死にたいほど辛い。今日は死にたい気持ちも出てきた。よって昨日よりも大きい値だ。もう苦しむのは嫌だ。