遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

同志失格。

 今日は訪問看護が来る日。午前10時半なのだが、それまで苦痛がして30分も耐えられず、午前10時に保健師さんに電話をし、窓口対応中とのことなので訪問看護に電話、訪問を早めてもらう。

 昼食は、食欲がないが無理して摂る。そして、居ても立ってもいられず、行きつけの喫茶店へ。ここでも、普段は頼むケーキを頼まない。そして、小林エリコさんの『この地獄を生きるのだ』を再び読もうとするが辛い。そして再び保健師さんに電話。

 帰りのバスでもジッとしていられない。そして、どうしてジッと座っていることすらできないのだと死にたくなる。そして、帰って、再び、保健師さんに電話。保健師さんがいなければ生きていけないかもしれない。

 ここでふと疑問に思ったのが、いつも支えてくれる同志のことである。いつもは、そんなに保健師さんに頼らなくても、この「同志」の言葉に勇気付けられてきた。しかし、その言葉が、今日は心なしか弱い。

 その後、TwitterのDMで、鬱が強いと打ち明けられる。原因はこれだったのだ。私は、自分の辛さばかりに目が行ってしまい、独善的な解釈をして、その人も精神疾患を持っていることを半ば忘れていた。しかも、障害者手帳の等級で行けば、私よりも、よほど重度の人である。

 支えあってこそ同志、それは、その人の言葉である。いつも、私ばかりが支えてもらっていて申し訳ないと言ったら、その人が、自分も支えられている、お互い様だと言うのだ。

 しかし、どこがお互い様だ。私は、ぜんぜん、その人を助けていないではないか。実際、今日も、休んでくださいとしか言えなかった。いつも、その人の言葉に支えられているのに、気が利いたことひとつ言えなかった。そんな私は、同志失格だ。