遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

身の上話。⑤

 入院した私は任意入院だったのに手紙の内容をいちいちチェックする看護師がいた。そして、いちいちチェックされるので書きたいことが書けないと手紙に書いたら、その看護士が「こう書いてあるけど」チェックなどしていないと言い張る。この人は、何で、「こう書いてある」のか知っているのかと問い質されても判らない。

 嫌な入院生活だった。主治医には、毎日、中学生の英語ドリルをやらされた。親に、勉強、特に英語ができないと言われたかららしいが、伊達にも特待生で高校に入学しているのだから、非常に馬鹿にした話だと思った。

 私は高校2年次から3年次に上がるときに高校を辞めて、大検を取る算段をしていた。その高校は内申書に定期テストの点数しか記載しないので、授業をロクに受けていない私には、圧倒的に不利である。さらに特待生クラスということで定期テストも特に難しい別の問題が用意されていた。

 しかし、結局、高校が卒業生として私を欲しいばかりに私を3年次まで在籍させるという密談を両親と交わしていた。両親にとっても、私は、特待生の中で唯一、3年次までの学費が保証された生徒だったから、財布も痛くはないし、また甘い言葉を囁かれたようである。そんなこと、高校は実行しないことが判らないのだ。

 結局、私は高校3年で退学となった。私は病院から予備校に通い、大検を取りに行った。大検の試験会場は千葉大だったと思うが、中学校の参考書ができないサポート校の集団が来ていて、大丈夫かと思った。予備校では、やはり高校で基礎を学ばなければできないものはできなかったが、国語は偏差値80近くを叩き出し、英語も偏差値20ながら、何となく、できそうな気がした。

 大検は一発で通ったものの、大学は全て落ちた。東洋大など失格理由を送付してきて、「学力以外の理由による」と書かれていた。それは、あんな内申書ならそうだろうなと思い、方針を変えた。

 私は文学者になるのが子供のときからの夢で、そうなると英語のひとつでもできないことには話にならない。併設している大学があり、そこに3年次で編入できる専門学校を見付け、そこに願書を出した。最終試験申し込みの最終日だったことを覚えている。両親と、それと一蓮托生の叔父は、どうせ受からないと言って試験を受けさせたが、面接があったため、かなり良い成績で受かってしまった。

 

 

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