遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

先が見えない。

撮影データ
日時:2023年02月15日13時20分
ボディ:PENTAX K-3
レンズ:HD PENTAX-DA 20-40mm F2.8-4 ED Limited DC WR の40mm端
絞り:f4(解放)
シャッタースピード:1/250s(Auto)
感度:ISO 200(Auto)
(絞り優先AE)

 

 朝から気が重い。そして高校を辞めたときのことを思い出す。私は高校時代、教師からのイジメに遭い精神病を発病した。そして、家に帰って身体が動かなくなったら、父親に、甘ったれるなと殴る蹴るされた。その手を振りほどいただけで110番してパトカーにサイレンを鳴らして来させた。なぜと主治医に訊かれたが、近所に不良息子がいるとアピールするためである。

 何回目かに生活安全課の警察官が来たのだと思う。私は隣の市にある国立の精神病院に連れて行かれ、すぐに両親から離さなければいけないと言われて入院になった。後の主治医曰く、今なら児童相談所もの、だそうだ。そして高校も辞め、病院から大検を取りに行った。大検の会場ではヤンキーの集合みたいなのが中学校レベルの問題を出し合っていて、正解したら大喜びしていて大丈夫かと思ったのを覚えている。

 大検は1発で取れたが、高卒認定と違って高校に籍があったら受験することができない。高校は慰留されて3年まで籍を置いていたので、受験したときには1浪と同じ年になっていたはずだ。ネットストーカーが、その間の学費をどうしたなどとバカを書いているが、私は特待生で学費は只だから籍を置いていたのだし、もう1年通って単位を取れば推薦で大学に入れると言われたが断った。

 ちなみに私を虐めて退学に追い込んだ教師は後に校長になり、今度は気に食わない教師を即日クビにして行政指導を食らっているが、今は法人の理事になっている。それらの教師が復職したというニュースは聞いていないので、私どころでない恨みを買っている筈である。

 大検を取って、予備校に通った。1年目はお茶の水の駿台で、なんとなく病院から自宅とは違った路線の電車で通った記憶が薄っすらとある。それから退院したのか、自宅から予備校に通った。2年目は高校の同級生の推挙で代々木にある未認可の予備校に通った。渋谷に集っているのが、そのまま流れてきたような学生しかいなかった。

 私の親のことだから私が行きたいというところより友人が勧めるところを優先したのだろう。ちなみに、この友人が、今でも金の無心の電話を架けてくる人物で、高校の推薦で明大の夜間部に入ったのに入学金だけ払って通わなかったという人物である。この予備校を勧めることといい、今になると一々、怪しい。

 私は普通の人でいう2浪目を終え専門学校に入った。当時、私の英語の偏差値は30なかったと思うが神田外語学院を受けた。このまま、この家にいたら座敷牢に閉じ込められたままになってしまうと思った。最終募集の最終日に願書を出した。入試は英語と国語、面接で、国語の偏差値は80あったし、それが良かったのだと思う。いきなり良いクラスに入れられ、下のクラスに入れば高校のおさらいから始まるのに、どこをノートに取っていいのかも判らず隣の席の女の子にノートを借りた。

 今、この、専門学校に入る前に感じていたのと同じ閉塞感を感じている。結局、酒を飲んで寝て胡麻化した。朝日の黒生、いつの間にか復刻しているだけでなく、私の家の直近のコンビニでも買える。そこは、なぜか私の好きなパーフェクトサントリービールは置いていないのに。ボケて傾いでいる写真、それが今日の私の象徴である。命の危機65%。

 

 

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