遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

身の上話。⑥

 しかし、受けさせておきながら、両親は専門学校には行かせないと言い始めた。曰く、高校にも付いていけない奴が専門学校など勤まるはずがないのだそうだ。あれだけ医者に両親が悪いと言われながら、それを全く理解できていない。

 そのくせ都合よく、我々と一緒にいちゃ死んじゃうんでしょ? 出て行きなさいよと言い、私は麻布にある母の実家である叔父の家に移ることになった。そこで叔父が出てきて、ユウにも学生時代の楽しさは味わわせてやりたいと言い、父は、大学に編入できなかったら学費は払うという借用書を書いたら行かせてやると言った。

 私が金幾らなりという借用書を書くと、それでは駄目だと、いかに私が駄目で両親を傷付けたかという反省文と嘆願書を書かされ土下座させられた。しかし、麻布の叔父も、血は争えないというより両親以上に変な人だった。

 叔父は失業中だったのに、毎日、今日はビジネスマン風などと言って背広を着てアタッシュケースを下げ朝早く出ていって、夜遅く帰ってきた。電話も通じず(そもそも携帯電話がない時代だったかもしれない)、私は母に訴えたら、このときは母も私が学校に行っているのを喜んでいたようで、叔父に言ってくれたようである。今思うと、私の抜きにして両親と叔父で遊んでいた気がする。

 私と言えば、偏差値20だったのに、いきなり良いクラスに入れられ、最初はノートの取り方も判らず隣の席の女の子に借りた。バスは混むし麻布の仙台坂上は駅から遠いし坂が多いので神田駅前にある専門学校まで自転車で通っていたのだが、ゴールデンウィークまでは死ぬのではないかと思うほどハードだった。この経験がなければ、多分、後の早い段階で死んでいただろう。

 ある日、帰ると、玄関で、普段はいない叔父が私を待ち構えていた。警察が来たと言う。都心では年に1回、警察官が巡回に来て、家族構成などをシートに書いてくれと依頼していく。それのことだったのだが、叔父は私のような不審者がいるから警察が来るんだと言い張って聞かない。このとき、叔父が変な人であることに気が付くべきだった。このとき家を出ていれば、私は自殺未遂をしないで済んだかもしれない。

 他方、専門学校の成績は絶好調で、専門学校は学力別のクラス構成だったのだが、もっとも良いクラスに編入し、TOEICや、名前は忘れたが専門学校が使っていたイギリスの国語の試験ではトップを取るようになった。毎日の勉強が楽しく、朝から晩まで夢中になって机に向かっていた。

 そして早いもので進路を決める時期になった。専門学校には、中学生のときと同じで、この成績なら進学してくれないと困りますと言われた。私は叔父に話すと、それは約束だからいいよと言う。両親にもそれで話を進めておくねと言ってくれた。

 しかしである。大学への編入手続きも進め、あとは入学金が振り込まれるだけという段階で入学金が振り込まれなかった。進学できなかったのだ。どうしてだと泣いて両親と叔父を問い質すと、勉強なんて嫌いなものに決まっている、それを机に向かっていられるというのは単にボ―ッとしているに決まっているからだ、本当に覇気がある人間というものは遊ぶはずなのに、お前は少しも遊ばないではないかと言う。

 私は愕然とした。両親には通知表代わりに、入学時に取った可が3つあるだけで、あとは優と秀しかない保護者向けの成績証明書が送られていたはずである。それよりも叔父を信じるというのか。お前、こんなに成績が良かったのか、だったら大学に行かせてやれば良かったなと言ったのは、10年後くらいに私が自殺未遂をしたときである。

 まだまだ、最も辛い時期には差し掛からないけれど、今日は、この辺で休みます。

 

 

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