遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

虐待と軟禁の思い出。

撮影データ
日時:2023年11月15日・18時00分
ボディ:PENTAX KP
レンズ:smc PENTAX-DA 18-270mmF3.5-6.3ED SDM の34㎜域
絞り:f4.5 (解放)
シャッタースピード:1/13s (Auto)
感度:ISO 6400 (Auto)
(プログラムAE)

 

 物心ついたときから殴る蹴るは普通にされていた。

 私はTVも何もない自分の部屋に軟禁されていて、30分に1回の割くらいで母は私の様子を見に来て、机に向かって勉強していないと殴る蹴るされた。それだけではない、勉強をしていても気に食わないと殴る蹴るし、教科書をビリビリに破かれたこともある。そして、父が帰ってくると何やら告げ口され、父にも殴る蹴るされた。

 TVも観せてもらえなかったので、流行りのアニメは判らない。ウルトラマンもガンダムも、どのキャラクターも知らない。ニュース番組も、ニュースステーションに至るまで観せてもらえなかった。

 私の部屋にはエアコンがなく、夏は40℃を超え、よく倒れた。トイレが近くなるからと水も与えられなかった。後に母が知人に私はヤワだから医者に連れて行って点滴を打つと直ぐに治っちゃうのよと言っていたから、熱中症だったのだろう。

 高校も、行きたい高校を受験して合格していたのだが(それでも第1志望は落ちたが)母親が茨城にできた新興の進学校に、お宅のお子さんなら絶対に東大に入れてみせますなどと甘い言葉を囁かれ、結局は特待生として、そこに入れられた。今まで東大には1人しか入ったことがない高校であった。

 そこで私は教師からの虐めに遭った。顔が気に食わないと言われ朝から晩まで廊下に正座され、授業中は朝から晩まで廊下に正座させられた。特待生は午後6時まで居残りの学習があったが、授業を受けていないので何をやっていいのかサッパリ判らなかった。

 そして精神を病み、動けなくなった私を父は怠けているといって殴る蹴るした。その手を振りほどいただけで家庭内暴力だといって110番し、近所に私が不良息子であるとアピールするためにサイレンを鳴らしてパトカーに来させた。千葉県警の警察官は父の言うことだけを信じ、父と一緒に殴る蹴るをした。

 市川にある国立の精神病院に運ばれたのは、このころだ。病院では、すぐに両親から離さなければいけないといって高校3年次は1度も通わず入院となり、高校と母に慰留され3年まで高校に籍を置きながら、辞めてから、入院先の病院から大検を取りに行った。このころのことは記憶が薄い。

 そして大検を取ったらキチガイは要らないといって実家を追い出され、母の実家である叔父の家から専門学校に通った。大学は、どこも内申書で落ちたが、その専門学校は面接もあり、また併設の大学に3年次に編入できるところだった。

 血は争えないもので、ある日、帰ったら、叔父は私に警察が来たと言った。東京は警察が定期的に巡回に来て、家族構成などを調べていく。それのことだった。それなのに「お前みたいに怪しい奴がいるから警察が来るんだ」と怒鳴りつけた。

 また、専門学校での成績は首席だった。勉強が楽しく朝から晩まで勉強していた。そもそも、遊ぶことを禁じられていた私には勉強しか楽しみが残されていなかったといって良い。そして、無事に大学への編入試験に合格した、というより、専門学校に、この成績なら大学に行ってくれなくては困ると言われた。

 無事に大学への編入の手続きをし、夢にまで見た学者への道を進む予定だった。しかし、入学手続きをしたのに学費は支払われず大学へは行けなかった。叔父曰く「隠れて様子を見に来れば朝から晩まで机に向かっているではないか。勉強なんて嫌いなものに決まっているから机に向かっているというのは単にボーっとしているしかないだろう」とのことだった。ちなみに、ほぼ全部が「秀」の成績表を叔父は見ているはずだ。

 私は専門学校に相談をした。もう3月である。就職活動などできる時期ではない。専門学校は、ここだけは入れたくないんだけどなぁと言って学校推薦で赤坂にある海運会社に押し込んでくれた。

 そこが今でいうブラック企業で、残業は月に250時間を超えた。それを叔父は、また、普通の会社が新入社員に残業などさせるはずがない、毎日、タクシーで帰ってくるのは六本木で遊んでいるからだと言って遊んでいるんだからと言って専業主婦以上の家事をさせた。

 今でも、それで、私の右腕の骨は疲労骨折して曲がって癒着している。私が生まれて初めて自殺未遂をしたのは、このときだった。そうしたら叔父は、そんなことくらいで自殺未遂をする奴は要らないと言って家を追い出した。そして、追い出すときになって、初めて私の成績表を見て、「お前、こんなに成績が良かったのか」と言った。

 そして、追い出された私は、最初は賃貸のマンションに住んでいたが、まだバブルが残っていた時期だったので、ゴミ置き場の前で日当たりが悪いという条件の部屋でもワンルームで7万円以上した。

 このころの記憶は、あまり定かではない。直ぐに今のマンションに移って、仕事も辞めた。完全にブラック企業で病んでしまったのだが、キャリアアップして移った丸の内の商社も辞めてしまった。

 そしてアルバイトを転々として編集のアルバイトをするようになるのだが、そのときに大きな自殺未遂をした。致死量の3倍近い薬を服んだのだが、1ヶ月後、誰にも発見されずに目を覚ましてしまった。

 全身麻酔の大きな手術となったのだが、家族は医者の説明の時間に来ず、私が医者に怒られた。自分の経験を書くのは、この辺で止めようと思う。対して、である。叔父がアル中で足の骨を壊死して入院となったとき、私の両親は職場まで頭を下げに行ったという。

 また、私を追い出した後、父は私に、わざと借金を負わせるなどしていたのに対し、自分は月に1回、旅行に行っていたそうだ。そして、父が死んだときに知ったのであるが、叔父は、私の実家に入り浸っていて、私の部屋を自分の部屋のように使っていた。

 父が死んで私が東京に帰っても叔父は実家に入り浸っていて、と他人に言うと「入り浸っていたのでなく心配だから居てあげたんでしょう」と言われるが、母親は私がいても作らない食事を作り、叔父は飲んだくれて、私がいても寝転がって放尿などしていた。

 それを母は小学生の子供の如く着替えさせてやり、父が、いかに私のことを嫌いだったかという話で盛り上がっていた。そうなると、私は、いったい、誰に愛されるために生まれてきたのだろうという気分になる。自分で自分を愛するにも、自分が好きなことは何一つさせてもらえず監禁され虐待されてきた。

 そんなことを思い出すと本当に死にたくなる。今日は、その気持ちが暴れて訪問看護に3回も電話で相談してしまった。今日の命の危機90%。

 

 

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