遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

死ぬときは静かなのかもしれない。

 昨日も、寝た途端にドキッとして目が覚めたり、何度も目が覚めている。そして、また早朝に目が覚める。訪問看護も周囲にいる人も、疲労が蓄積しているのではないかと言い、自分でも、そんな気がしている。

 もう、今日は何をしているのか判らない状態。夜、目が覚めたときにLINEのKeepメモでメモをしているのだが、今日は、LINEだと思っていたものがTwitterだったりして、個人的メモが公開される一歩手前だった(ツィートではなくDMだった)。このBlogも文法も変で誤字が多くて、公開までに推敲どころかシンタックス・エラーが取り除けるか。

 また、保健師さんに電話をしても何を言っているのか判らないと言われる。頭がまとまらない状態。軽いパニックと言おうか。訪問看護(皮肉にも昨日書いた人)に、普段、午後になったら笑い声が交じるのに、それがないと言われる。そして、逆に、このまま弱ったら助けを求めないだろうなと思う。

 今年の3月に母が死んだが、もう何年も、薬害や末期癌を放っておかれたから訴えるんだと言って弁護士事務所に行って弁護士に騙されたり、そのときに股関節を折って人工股関節を入れて私は地方の病院まで手術説明に呼ばれたりした。

 それからも、母は救急車を呼んではゴネてを繰り返して、私は母が住む市の市役所に呼び出されたりもした。私の方が精神疾患を悪化させてしまったのだが、母は平然と救急車を呼び続けたり私を呼び出して事務をさせたりしていた。

 それが、急に連絡が来なくなった。もちろん、ヘルパーも入っていて市の福祉の人とは繋がっていたので(なので、なぜ私を呼び出したりした市の関係者が私に連絡を寄越さなかったのか不満なのだが)、訪問看護や往診を受け、独り看取られ状態にして1週間で亡くなってしまった。老衰だった。

 人間、死ぬときは静かなのかもしれない。

 

 今日の命の危機85%。助けを求めるのを諦めたときがあり、そのままセルフネグレクトに陥るかと思った。