遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

理解してくれる人がいる心強さ。

 今日は松戸の証券会社に相続の手続きに行かなければならないので、外出する前に、これを書いている。

 昨日は本当に死ぬほど苦しく、SNSで苦しさを吐露していた。保健師さんにも5・6回、電話をしたのではないだろうか。本当に、よく死ななかったものだと思う。そして、今日も、死にたい気持ちは昨日ほどではないが強い。

 いつも、Twitterでは、自分でもいっている「まともな人」がいて、この人に「いいね!」や返信を貰うと安心するという人がいる。ただ、やはり、自分が判らないことには無責任なことはしない。

 Facebookでは、もう2年くらい、何の投稿もしなかった小・中学校の同級生が私の苦しんでの投稿にコメントをしてくれた。ただ、やはり、生きる目標を持つと違うよとか、通り一遍の内容。うん、判ってるよ、でも今は光が見えないんだ。でも気に掛けてくれていたのは嬉しい。

 そんな中、Twitterで、私の投稿に「いいね!」が付いた。フォロー外のアカウントで、見に行ってみると2018年から休眠しているアカウントなのだが、急に「つらいのに今まで頑張って生きてきたあなた、本当に偉いよ。」とか「雰囲気からして素敵な人だと思う。大丈夫。」というツィートをしている。

 これは私に対する励ましではないか。何の根拠もないし、保健師さんに、そう考えるのはキケンと言われたけれど、私は、そのことに勇気づけられた。今までは、TwitterのDMで遣り取りしてくれる山姥さんに励まされていたのだが、新たな見方ができた感じ。

 以前、書いたが、同じマンションの住民には「着替えもせずゴロゴロして食事も作らず家でゲームをしている人」だと思われている。実際にゲームなどしたことはなく、悶え苦しんでいて食事も作れないことも書いたが、そう思われていることで、どんなに苦しんでいるか。

 それが、こうやって理解してくれる人が3人でもいると思うと、ものすごく救われた気持ちになる。ただ、顔が見えないのが残念ではあるが。