遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

身の上話。⑧

 前エントリーで書いたように、薬でヘロヘロになって、これを書いている。なので、書きたいけれど力が入らないので無理して書いている感が強い。

fonttoto.hatenablog.com

 

 私の家が経済的に恵まれていた(といっても中級の上くらい)から、逆に悪かったという人がいる。もし、親の経済に依存しなければ、家を出て自活して逞しく育っていたとか、早くに結婚して幸せな家族を作っていたという人がいる。

 しかし、当時から、私は文学者になるには大学に行くことは必須だと思っていたし、グレて勉強やスキルを身に着けるのに人生の大事な時期に配偶者や子供に振り回されるのは嫌だと思っていた。詳しくは旧Blogに書いた。

circumstances.hatenablog.com

 

 さて、薬が効いて、これだけ書いただけでフラフラなのだけど、無理して書く。専門学校の学生課に行って、親に与えられたスーツを見て、なんだそれはと言われたものの、ここは紹介したくなかったんだけどな… という会社に紹介状を書いてもらった。

 どうして紹介したくなかったのかは、入社して判った。新入社員はトイレ掃除から始まり、安く使える労働力として深夜過ぎまで仕事をさせられた。しかも、その仕事が、仕事を依頼してくる会社から仕事内容(例えば数十万個の部品のアイテムデータ)を電子データで貰うのだが、送られてきたデータを自分の会社のコンピュータに転送できず、ダンプリストに打ち出して、再度、入力するというようなものだった。

 海運関係の会社(乙仲)だったのだが、1994年にして、作成される書類の半分はコンピューターではなく手動式のタイプで作られるものだった。そして私は朝から晩まで意味のない数列を打ち込み、自分が何をしているのか判らなくなってしまった。

 数字の打ち込みは止めさせられたが、今度は朝から晩までコピー、しかも、書類をページ通りに並べてホチキスで留めるという、そんな単純なことまで訳が判らず処理できなくなっていた。残業は月に250時間に及んだが、おかげで失業時には少し有利になった。

 その理由は家庭にもあった。叔父は会社が新入社員に残業させるわけがないと言い、毎日、タクシー帰りなのは六本木で遊んでいるからだと決めつけた。これも、勉強せずに遊んでいると思ったら成績など無視して遊んでいることにするように、新入社員に六本木で遊んでいる金などないこと、1994年にはタクシーなど、会社ではなく一個人では拾えないことは都合よく無視された。

 そして、私は、遊んでいるのだから専業主婦以上の家事をしろと言われ、朝から翌朝まで会社でパニックになりながら仕事をし、毎日、家の大掃除から食事の支度までさせられた。会社でタイプ(いまだにハンマー式であった)を叩き、家で家事をさせられ、左腕が回らなくなった。ちなみに家に内風呂はなく、麻布十番にあった銭湯まで暗闇坂を上り下りして通っていた。

 私は、どのタイミングか忘れたが、医者で左腕を見てもらったら、疲労骨折して、ずれて曲がって癒着しているとのことだった。どうして骨折する前に医者に来なかったのかと怒られたが、腕が痛かったときも会社では先輩に、どうせマスターベーションのし過ぎだろうとか言われ、それどころではなかった。

 勤めて半年ほどで音を上げて、私は鎌倉に死にに行った。駄目だ、フラフラで頭が働かないので、ここまで。

 

 

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