遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

吉岡里帆さんに私はなりたい。

撮影データ
日時:2024年03月05日・16時40分
ボディ:PENTAX K-3
レンズ:HD PENTAX-DA 20-40mm F2.8-4 ED Limited DC WR の30mm域
絞り:f4 (Auto)
シャッタースピード:1/100s (Auto)
感度:ISO 200 (Auto)
(プログラムAE -2/3EV)

 

 幸い、今日は、満足がいくほどは眠れなかったものの朝の早いうちに起きることができたのだが、朝、起きたら希死念慮というより自殺願望が強くて参ってしまった。一昨日、古いPCを撤去したのだが、20㎏くらい(体感)あり、撤去に1日かかった。そんなでは1年後の引っ越しが思い遣られる。

 そう思うと、港区で行われている、町ひとつ、まるまる再開発とか、町を幾つも合わせて○○ヒルズにしてしまうのが酷く横暴に思えて、こっちとしては生まれ故郷の破壊だと喚きたくなる。好き好んで港区に生まれたわけではないし、好き好んで港区から引っ越した松戸から、さらに追い出されて出戻ったわけではない。

 東京は100年に1度の変化を迎えているという。そんな変化があるのなら、もっと、それに順応した生活をしていた。それを、住民が知らないところで、勝手に家を壊して高層マンションにするから出て行けということに、非常に腹が立って仕方がなく、腹立ちが自分に向かうようになり、死んで世の中と関りを断ちたいと思ったのだ。

 人生、上手くいっている人が羨ましいよ… と思ったとき、頭に浮かんだのが吉岡里帆さんだった。容姿もさることながら、その性格や努力からくるであろう実力に嫌が上でも嫉妬を感じる。私も程度の差は段違いだが、人生が上手くいっていた専門学校生時代は努力など屁でもなかったし、邪魔なものには振り向きもしなかった。

 奇麗に暮らしていらっしゃいますねと言われていたときは、そもそも無駄なものに費やすエネルギーなんてなかったし、勉強や仕事などに過剰なほど忙しかったから体格もスリムだった。何度も書くが内風呂もなく銭湯通いだったが、まったく苦にならなかった。それが段々と何事も苦しくなってきた。

 朝から晩まで死に物狂いで机に向かい猛勉強していたのを、叔父に勉強など嫌いなものに決まっているのだから単にボーッとしているに違いないと邪魔をされ、大学編入に受かって入学手続きまでしたのに入学金が支払われず、3月に入って就職浪人になったこと。

 慌てて専門学校に押し込んでもらった会社がブラック企業で、叔父が今度は会社が新入社員に残業させるはずがない、毎日、タクシー帰りなのは六本木で遊んでいるに決まっていると始まった。それまでも、秀と優しかない通知表は見せてあったし、新入社員に六本木で遊んでタクシーで帰れる金などないことは火を見るより明らかだ。

 そして六本木で遊んで帰れる余裕があるんだからと専業主婦以上の家事をさせられ、私は腕を疲労骨折した。私は死ぬ決意をして鎌倉に行ったのだが、現地の人に優しくされ、死なずに帰ってきてしまった。そうしたら叔父は私を家から追い出し、初めて私の成績表を見て、お前、こんなに成績が良かったのかと言った。

 私は精神を病んで体重は倍増した。性格にも左右したようで、学生時代から通っていた床屋では、あんなに優しくて格好も良かった(身長は179㎝で股下は83㎝、体重は60㎏だった)のに何だと良かれと思って焚きつけられた。さすがに病気に鞭打たれて居たたまれず床屋を変えた。

 一方、吉岡里帆さんはどうだ。伝聞だが、俳優になるのに家族の後押しがあったという。学業や芸術も、そこそこの成績だったのに、それを捨てる気かとも言われなかったらしい。私は高校も、自分が行きたい高校に行かずに親が決めた高校に入れられた。そして、そこで教師からの苛めに遭ったのが精神を病んだ切っ掛けだ。

 考えてみれば小さい時から、お前の母ちゃんキチガイと、よく苛められた。何か、書き出すと高校時代のことから芋づる的に思い出されて苦しくなってしまうので、そろそろペンを置く。せっかく肉体的には完全に回復したのに、人生、上手くいっている人を見て羨ましくなる感情は消せないままだ。

 

 

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