遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

一睡もできず辛い。

 今朝の辛さは既に遠くになってしまっている時間になってしまったが、昨日のヒルナミンによる傾眠の影響で一睡もできなかった。

 夜中、あまりに眠れないのでヒルナミンを再び服もうかと思ったのだが、相談しようにも訪問看護に電話をするには真夜中すぎる時間。

 今朝も、よほど酒を飲んで寝てしまいたい気持ちが強く、昨日、折り返し電話をくれた訪問看護の月曜日の担当者にSMSを入れる。

 こんなことばかり書いているから「小娘の顔色を窺って…」と図星の判断をされるのだが、今日の担当者が訪問予定ですので相談してみてくださいとのお返事。

 以前の担当者は厳しいながらに休日も電話に出てくれたし、心配だから自分の担当ではない曜日だけど私が行きますという人だった。

 しかし、もっと寝たいのに、朝になってしまったから寝ていられない。訪問看護は午後1時からなので酒を飲むわけにいかないのだが、余程、酒を飲んで寝てしまいたい。

 少量の酒ならバレないだろうと、サンプルで貰ったアルコール分4%の「ジャスミン焼酎 茉莉花」の335㎖缶を飲む。少し酒の味がしたような気がするが、全然、酔わない。

 仕方なく、目覚ましにシャワーを浴びる。もう、シャワーも週に1度しか浴びられなくなってしまっていて、木曜日の通院に備えて水曜日に浴びるのが恒例になっている。

 そして、シャワーを浴びながら、風呂場で死んでいたという叔父のことを思い起こす。アル中による心不全だった。

 私の両親は私より叔父を可愛がっていて、私には理由なく殴る蹴るをして精神を病ませて家を追い出したのに、叔父に、その私の部屋を宛がって半ば入り浸りにさせた。

 そして、私には、わざと借金を負わせて食うものにも困らせながら、自分たちは叔父を引き連れて旅行などに行ったりした。

 そんな叔父は、叔父を可愛がっていた父が死んでから、本当に実家に入り浸るようになり、ほぼ母と生活を共にするようになった。

 朝から酒を飲んで放尿し、母がそれを着替えさせても、また放尿するを繰り返したりしていた。母の叔父に対する対応は、私に対しては考えられないものだ。

 詳しくは私小説のほうに書いたが、世話になった人が死んでも酒を飲んで「幸せ、幸せ」と繰り返している。

 挙句の果てに、母が変になり始めたら、タバコも酒も止めずに手が、母曰く「中気のように」震えて食器すら持てなくなったという。

 このときも、母から、叔父を連れて帰ってくれと連日、電話があり、困った。楽しいことは全部、独占して、厄介なことは、すべて私である。

 こんなことを思い出してシャワーを浴びながら死にたくなった。両親も叔父も、ひどい奴らなのに、どうして良い人生だったと言って死んでいくのだろう。私など家族の被害者と言われているのに。

 朝から左瞼が痙攣している。シャワーを浴びても治らない。

 そして訪問看護。電話に依存しないようにといわれる。しかし、電話をしてくるんだったら飲む前にお願いしますと。

 そして、10分強、散歩に同行してもらう。なんか、今日の訪問看護は来る前から苦痛でしかなかった。そして、苦しそうですけど頑張ってくださいねと言って帰っていった。

 訪問看護はストレスだった。私はストレスから解放されて、いつもの半分ほどの量だが、また飲んでしまった。そして半時間(と西日本では言うらしい)ほど、ウトウトとする。

 やっぱり目が覚めたときはダルいが、今はもう平気。一昨日みたいに自己嫌悪でヒルナミンを服んでフラフラにならないようにして、今日は暮らしていこうと思う。

 

 

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