遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

助けてくれない人も含め誰も肉親はいない。

 昨日は死にたい気持ちが激しくて午後3時に眠剤を服んだ。ヒルナミン5㎎を10錠も一緒に服んだのだが、午後7時には目が覚めてしまった。しかし、ヒルナミンが効いて身体が動かない。

 さて、私の一家・親族の構成は、私が物心ついた時点から、両親と、母の弟である叔父だけである。

 母曰く、叔父は死ぬ前に、ボロボロの格好をして、普段、母のところを訪ねるときには持っていくボストンバックも持たず、バスの昇降も助けてもらって訪ねてきたという。そういえば、叔父が手も震えて箸も持てない状態で椅子から立てもしないので何とかしろと私に電話が架かってきたときがあったので、そのときだろう。

 叔父は私の両親に大事にされていたというより甘やかされていた。私の両親は、私が自殺未遂を図ったときは1ヶ月以上経っても結局は発見せず、手術の事前説明にも時間通りに来なくて医師は怒っていたのだが、叔父がアル中から来る糖尿病で足の骨を壊死したときは、自分の家の車を出して勤務先(といっても定年過ぎての嘱託)に私の両親揃って挨拶に行ったそうである。

 これは既述だが、叔父は、そんな世話になった父が亡くなったときも、自分はタクシーを20分も待たせて酒を買い、幸せ幸せと繰り返していた。私が寝ていても大音響でTVを付け、床で放尿し、私は薬で寝ているのに、独りで飲んでいるんだろうと言って起こし、薬がないと眠れないと何度も言っているのに、昼、寝ていればいいではないかと言う。

 父は90歳まで生きたいと言っていたそうである。月に1度、母に車を運転させて旅行に行っていたそうだ。他方、私には自殺未遂をしたときの医療費も「後で払うからクレジットカードで立て替えておけ」と言って払わず、公立病院だったので分割にできたはずだが、私は困ってリボ払いにした。

 それで借金を抱えさせ、1日に1回、コンビニで最も安い弁当を買うのがやっとだったのに、借金があるのに買い食いなど贅沢だといって私を責めた。私はちょっとしたことで裁判に掛けられたことがあるが、父は「借金の肩代わりなんてしません、ざまぁみろです、そうやって自分がコイツを追い詰めているんです」と言って、裁判官に訊かないことを言わないようにと言われ、私は再犯を起こす確率が高いとされた。

 そんな、どいつもこいつも母に頼っていて先に死に、その、頼られた母の分を、全部、私が背負うことになっている。叔父以外、知っている血縁者がいない母方の墓地も。それに、田舎で只同然になった90坪もある実家も。腹が立つのは、母を含め、皆、「良い人生だった」と言って死んでいることである。母も、私が子供のとき、「お前の母ちゃんキチガイ」と虐めれられた母である。

 もう、うんざりである。赤ん坊のように泣きたい。保健師さんに、あなたがなりたくない人種、他人に迷惑を掛け、他人に大変だと言われるような人種と言われたが、もう、酒を飲んでクダを巻いていたいと思う。毎日、更新を確認してくれる奇特な人はいないだろうが、このBlogの更新がなかったら酒を飲んで死んだとでも思って欲しい。