遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

一昨日から大変だった。

撮影データ
日時:2024年02月12日・14時30分
ボディ:PENTAX K-3
レンズ:smc PENTAX-DA 18-270mmF3.5-6.3ED SDM の31㎜域
絞り:f8 (Auto)
シャッタースピード:1/400s (Auto)
感度:ISO 100 (Auto)
(プログラムAE)

 

 一昨日(土曜日)から希死念慮が激しい。正直、それで一杯いっぱいでBlogを書く力が出ない。

 土曜日は、それでも、金曜日に放送されたTVドラマ「不適切にもほどがある!」を観て誤魔化したのだと思う。夜はWeb同人誌「写真と文」の編集部員を中心とした恒例(週に1度)のTwitterのスペースがあった。

 ある人が、最近、clusterユーザーのツィートを見ていると体調が悪そうな人が多いと言い、メンタルヘルスに詳しい友人が何やら答えていて、そこで「お気持ち表明」という言葉が出てきて何かと思った。

 皇族の言葉かよと思ってネットで検索してみると、どうも、それに由来するようで、その、調子が悪いという発言が「お気持ち表明」であるか否かという話だったようだ。私は思ったことを、そのまま書いているが、自分で「お気持ち表明」をしていると思ったことはない。

 その言葉を知ってしまったからか否か、なんとなく自分のことを素直に書くのが嫌になった。調子が悪いことを調子が悪いと書けないと、それはそれで問題である。私など調子が悪いと訪問看護に電話をしてしまっているが、アピールだと捉えられるのは遺憾だ。

 “表明”というより、これは一種の“本心”である。昨日の寝ても寝ても治らない激しい目眩は収まったものの、まだ何となく頭がクラクラするし、今日は午前中、訪問看護があったのだけど、いつもは愛想がいい看護師さんに少し非難がましいことを言われた気がして(気がしただけだが)落ち込んだ。

 とにかく私は親の顔色を窺わないと生きていけないという環境で育ったためか、他人の印象を非常に気にする。土曜日のTwitterのスペース以前に何があって土曜日のBlogが書けなくなったのかは覚えていないが、「お気持ち表明」という言葉を聞いて更に書くのが嫌になったのは事実だ。

 また、昨日は、そのことについて私なりの意見を書こうと思っていたのだが、目眩が激しくて、途中、食事を摂りに起きたりはしたけれど、午後5時まで寝てしまった。そういう身体面での大変さもあった。今も激しい希死念慮に襲われている。本当、自分で自分が嫌になる。

 

 

 ランキングサイトに参加しております。バナーをクリックしていただけると投票されます。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ メンヘル日記へ