遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

死を考えた後に死を想う。

 今日も辛い。昨晩は肉体的な苦痛で眠れなかった。それでもFitbitスマートウォッチによると「深い睡眠」は2時間に達し、訪問看護にはバイタルサインが良いと喜ばれる。

 ちなみに、今日の訪問看護は金曜日の看護師さんではなく月曜日の担当者が来た。時間的な都合なのか(今週から時間を30分遅らせてもらった)月曜日の訪問のときに話したことで、この2人は合わないなと思ったのかは知らない。

 さて、他方で、少し前のようなアグレッシブな倦怠感ではないが、倦怠感が抜けない。訪問看護が来ても起きられず、午後3時近くまで食事が摂れなかった。夕食は昨日は午後5時過ぎに摂ったので、寝しなに眠剤の口直しにアイスを食べているが、それを含めても19時間は何も食べていない。炭酸飲料くらいは飲んだ。

 今日は、本当は渋谷の行きつけの喫茶店に行く予定だった。しかし、起き上がったのが午後5時では、それもできない。それを楽しむ努力をしないと言われても困る。写真も、今から撮る。そして、また、苦しみながら色々と考える。

撮影データ
日時:2020年11月18日17時40分
ボディ:PENTAX K-70
レンズ:smc PENTAX-D FA MACRO 50mm F2.8
絞り:f2.8(解放)
シャッタースピード:1/100s(Auto)
感度:ISO 1250(Auto)
(プログラムAE・派手な偽色が出たのでホワイトバランスの設定を手動でしています)

 

 今日は鷺沢萠さんの名エッセー「『私』という『自分』」について考えた。同作品が収録されている書籍は、こちら。以前はNHK高校講座のPDFファイルを紹介したのだが、URLが変更され「目的外の使用禁止」というウォーターマークが入っているで書籍で読んで欲しい。勉強という目的でも高校講座以外は目的外の使用になるのだろうか。初出は、たしか宗教系の雑誌だったはずだ。

 

 さて、考えたのはエッセーの論旨とは外れたところである。次の一節だ。

私は死を恐れる。生に対する未練がある。たぶんそれは自分の生が無に帰するのが怖いのだと思う。

 ほんの短い一節であるし、筆者が自殺したということに触れられる機会も少ない。そう思ったらYahoo!知恵袋で、やはり「いま、彼女の作品を読むなら、そのことは知っておくべきだと思います。」と書いている人がいた。

 なんかYahoo!知恵袋の回答で、ほぼ私が言いたいことは代弁されてしまっている。

彼女が自殺したことを知っている人が読むと、

>そういう思いを切ないくらいに抱えながら生きていくことが「自分らしく生きる」と呼ぶに足り得るものであるならば、もしかしたら私は自分らしく生きているのかもしれない、と思う。私は死を恐れる。生に対する未練がある。たぶんそれは自分の生が無に帰するのが怖いせいだと思う。

という文章が凄い重みを持っている。
かといって、自殺したことに触れる必要は無いでしょう。このときの彼女は死を恐れているのだから。この文章を読ませてもらうことができて、私はとてもよかった。

やらなければならないこと、やりたいこと、そのはざまでどんな苦しみがあったか、少しだけわかりました。ほんとうに偶然のことでしたが、質問者さんにお礼を言います。どうもありがとう。

 

 この回答者さんが言う「凄い重み」である。私は、ここ2・3ヶ月くらいかな? 本当に嫌でも死について考えた。そして、その後に感じたのが「生に対する未練」である。これは若いときに自殺未遂をしたときは感じなかった。

 この、死を決意した後に感じる、その怖さというのは、到底、説明しがたい。この思いが解るというだけで、この回答者さんにお礼を言いたい。今日も苦しいので、まとまりがないが、この辺で。今日の命の危機70%。私も生に対する未練があるようだ。

 

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