遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

ほんの一瞬。

 今朝も、いつも同様の苦しさがある。それでも、0.2秒ていどだったが、このままでは死ねないという思いが頭を ぎった。本当に短い間で言葉にするのが追い付かなかったのだが、昨日のエントリーを書くにあたって、こんな些細なことで苦しんではいられないという思いだ。

 病気を描き切る、苦痛を描き切る。その過程において、こんなことには負けてはいられない。そういう思いが、本当に本当に一瞬だが頭を過ぎった。このままでは死ねないと思った。書き切るまで死ねない、そして、まだ書き出してもいない。

 しかし、そうは言っても一筋縄に行かず、何やら色々と思うことがあって、今は魂の修行のようなものというアヤシい宗教なことも思ってしまった。

 

 そして通院。既述のように私の家の最寄りのJRの駅は田町駅で、通院先のクリニックの最寄り駅は新橋駅だ。

 JRだと交通費が勿体ないので田町駅から新橋駅までJRには乗らず、三田駅から新橋駅まで都営浅草線を使っている。東京都は障害者手帳を持っていると無料で都営交通の乗車証が発給されるのだ。

 私の家の最寄り駅まではバスで行くのだが、バスは田町駅前という名前のバス停なのに三田駅の側に着く。そして、ちょっと田町駅に用を足しに行ってから三田駅に行ったら都営浅草線は遅延しているという。

 電車が来る様子もなければ、さかんに振り替え輸送の案内をしているので、JRに振り替えた方が良いのかと思って駅員さんに問い合わせてみる。

 そうしたら私の乗車証は振替の対象とならないことなどを教えてくれて、どっちにしろ田町駅に行くのも辛いので、そのまま三田駅で電車を待つことにする。東京の地理をご存じの方は多いと思って駅名を書いているのだが、両駅の間は数百メートルもない。

 しかし辛くて、死ぬ気満々というと変な感じだが、そこに救いを求めるように渇望し、本当にプラットフォームドアがなかったら飛び込んでいたと思う。

 そして、無理してカメラを携えてきたことを悔やむ。健康な人から楽しむ努力をしていないというようなことを言われるので無理して持ってきたのだが、本当に無理をしたという感想しかない。

 そして、カメラを持っているだけで楽しんでいるように見えるのか、ヘルプマークを付けていたところで健常者の配慮する対象からは外れるようだ。ただ、遅延した電車なので座れないのは織り込み済みなのだが、混んだ電車で立ちっぱなしだったのに、そんなに苦しくはなかった。

 電車に乗った当初は発狂までは行かないもののパニックを起こしそうと思ったのに、2駅だけだが平穏無事に降車まで過ごせたのは、混雑率250%の時代に松戸の外れからお茶の水まで地下鉄千代田線に乗って学習塾通いをしていたせいだろう。

 そして無理して喫茶店へ。今日は電車の遅延があり、行こうかどうか迷ったのだが、これも義務を果たすつもりで来た。

 ハッキリ言って、楽しむ努力をしたところで、結果、楽しくはないのだから、それは努力の方向として正しくないのだと思う。そのくせ、周りには楽しんでいるようにアピールされてしまう。楽しくもないのに、楽しいことをしていると言われる。

 何よりも口惜しいのは、何かにつけて努力をしていないと言われることだ。これだけ楽しくないことについて努力しているのだから、そして苦痛にも鈍になっているのだから、嫌なことに対してでも努力はしている。

 そして喫茶店。カメラを取り出して写真を撮るが、大幅にブレボケした。普段は、それも心理描写のひとつと思って掲載しているが、それも憚られるほどだ。

 そして診察。何が原因かと訊かれ不安だと思うと答える。そして、何が不安かと訊かれ、昨日、訪問看護に話したことと同様なことを繰り返す。また悩んでも仕方がないことを悩みますねと言われ、ラツーダの代わりにレスリンが処方となった。

 そして薬局。レスリンは1日4回の処方だが一包化に入れないで良いのかと訊かれ、今まで処方されていた防風通聖散が入手困難なので他の薬で代用できないか疑義照会をすると言われる。

 自分が一包化や疑義照会をするわけではないのに、もう、それだけで苦しくなってくる。1日に4回も薬を服まなければいけないのかと、それだけで苦しい。人間としてのキャパが狭くなっている。これも、それが本来の私の器の大きさではないのに、昨日のクズ医者のように、それを私だと思っている人間がいることに腹が立つ。

撮影データ
日時:2020年11月17日16時10分
ボディ:PENTAX K-70
レンズ:smc PENTAX-DA 18-270mmF3.5-6.3ED SDMの18mm端
絞り:f3.5(解放)
シャッタースピード:1/50s(Auto)
感度:ISO 500(Auto)
(プログラムAE)


 やっと帰りになり写真を1枚。上の写真、まさにその1枚しか撮れなかった。ただ水平にカメラを構えることを心掛けて撮る。帰りも辛いが、帰ってきて少し余裕が出てきたように思う。そして、ぼんやりと、私のTwitterのフォロワーさんや、このBlogの読者のことを想う。

 コメントくれた人、最近、ご自身のBlogの更新がない方…。先日、自分のBlogに「良くないことを考える」と書いていらっしゃった方がいて、おそらく経験者しか感じないだろうが、かなり差し迫った感じを受けたので、思わず「生きましょう」とコメントしてしまった。

 今、思うと、なんと思い遣りのないコメントだと思う。それを読んだときの自分の悲しい気分など、まったく伝わらない文章だ。ここで、どんなに悲しく思ったのか、相手に伝わるよう、切々と語るのが私らしいと思う。しかし、それができなかった。

 他方、それにより、私が死ぬ思いをしているとき、読者の方は、どんな風に思っているのかも類推することができた。決して大袈裟にならず、卑下もせず、それを切々と語るのが私らしいと思う。苦痛を感じて矮小化してはいられないのだ。

 順番が前後するのかしないのか判らないが、これからも書きたい、そのためには生きたい、そう思うことが、ほんの一瞬だがあったのが、今日の出来事だ。命の危機は少し引いて67.5%。今日こそ休まないと明日は死にそうだ。

 

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