今日は朝から鬱で、からっきしダメ。その代わりというか、昨晩、変に時間があって、麻布競馬場の小説を読んだ。私が麻布競馬場の近作に書かれていると某大手出版社の編集者から教えられたからだ。地元の公立図書館には麻布競馬場の本は、これしかなかった。
あまりにも下らなくて全部は読んでいない。田舎の人にとって早稲田か慶應を出て港区に住んで、いい歳して不順異性交遊をすることが成功なのか。その基準で、どうも私は人生の敗者であるらしい。
ちょっと原典が見当たらないのだけど、東京出身の大先生で、予約が取れない高級店の常連ですって気取っている人ってバカだよねぇというのが口癖で(他にも、どこどこの店で特別扱いされるとか外車に乗っているとか言っていた)作品にも書いている人がいたが、その最たるものであると思う。
ただ、時代が違うというのはあるかもしれない。冒頭の1編で、田舎の高校教師か何かをしている主人公が質量保存の法則のように親の頭が空っぽだと子供をそれを受け継ぐというような表現があったが、昔、読んだ篠田節子先生の小説に、こんな表現があった。
ある程度のレベルの公立高校へ入れば、自力でそれなりの大学の入学が叶う牧歌的な時代だった。親の意識や経済力でなく、本人のやる気と努力が実を結ぶという点で、今よりはるかに機会の平等が確保されていた時代に、高澤はエリートの仲間入りを果たし、希望していた金融の仕事に就いた。(篠田節子『銀婚式』147ページ)
この『銀婚式』の主人公は、私と同世代か少し上だと思ったが、私の世代では、それが普通のことであった。松戸育ちの私としては、親に恣意的に変な私立高校に特待生として送り込まれたが、普通に県立東葛飾高校か小金高校に行って地方の国立くらいに入るものだと思っていた。ちなみに小金高校に行っていたら伊坂幸太郎さんと同級生だ。
しかし、私の時代から、慶應出の女子は耐えなければいけないという話を当人から聞いたことがある。結婚相手は慶應出の男に限られて、慶應出の男は浮気をするからだそうだ。幸か不幸か私の周りには幼稚舎から慶應という人間は1人しかいないが、そんな慶應出の男は、そいつを入れて、いない。
私は首都圏以外で過ごしたことがないが、だいたい、都会の人間というのは高校ぐらいで遊ぶのに飽きてしまうのではないか。私は独身なので会社帰りにジャズを聴きに行ったりバーに行く程度の余裕があったが、だいたい、結婚して家庭のことで大忙しというのが常であろう。家庭を持ちながら不倫などと聞くと、そんなことが本当にあるのかと思う。
麻布競馬場も地方出身で慶應に通い麻布十番に住んでいたそうだ。麻布競馬場の描く世界に憧れる人は、自分は田舎者だと自覚した方が良い。
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