撮影データ
日時:2020年12月14日16時50分
ボディ:PENTAX K-70
レンズ:smc PENTAX-DA 18-270mmF3.5-6.3ED SDMの135mm域
絞り:f5.6(解放)
シャッタースピード:1/80s(Auto)
感度:ISO 3200(Auto)
(プログラムAE)
朝、目が覚めたときのことを書こうとしているが、あと10分で訪問看護が来るので、記憶が新しいうちに書き切れないかもしれない。
さて、相変わらず、夜中、嫌な夢で目が覚めた。Fitibitスマートウォッチによると、メモを取っていたりする明らかに目が覚めた時間も寝ていることになっていて、「深い睡眠」は2時間を超えている。
この、嫌な夢や恐怖で目が覚める前は、中途覚醒も正確に記録されていたので、今はFitibitの想定していない寝方になっているのだろう。
今朝は目が覚めたとき、かつて、親が私を殺すために入れた“殺人病院”のことが思い出されて殺してくれと叫びたくなった。苦しくて、こんな思いをするなら殺してほしい。
何回も書いているが私は両親と不仲どころではない。それを、かつて通っていたクリニックに非常勤に来ていた医師が目に付け、私の両親にセールスを仕掛けた。
しかし、私小説の前作に書いたときは、そんな苦しくはなかったのに、今は思い出すのも辛い。今、訪問看護が帰ったが、苦しくて書けるか不安だ。
さて、20年近く前だろうか、早朝、車で来た両親に拉致され、2時間かけて武蔵野の奥の方にある精神病院に連れて行かれた。ちなみに実家から我が家までは2時間ていど掛かるので、計4時間ほどの道のりであるはずだ。
そして、そこは閉鎖病棟だとしても一般に言う精神病院というものとは大きく異なっていた。暴力団の事務所のように何重にも扉があり鍵が掛けられ、最後の部屋に、その医師がいた。
医師は両親に「親御さんの思った通りの人格にしてみせますよ」と言い、私の両親は「素晴らしい先生だ! 私の主治医のようなヤブ医者とは違う!」と大騒ぎした。
入院計画書には病状のところに「家が汚い」、治療目標のところに「親に絶対服従」と書かれていた。
そのくせ、病院の建物は綺麗で、私の入院していた3ヶ月程度、庭師が入らなかった日がなかった。TVドラマのロケが頻繁に行われていて、院長は取っ換えひっかえ色んなキャデラックで通院していた。
その医師には薬を減らすための軽い任意入院だと言われていたので、任意入院なら断ると言った。そうしたら、その医師は、だったら医療保護入院に切り替えると脅した。
任意入院なのに、外部との連絡は面会のみならず電話も手紙も禁止された。人権を擁護する機関への連絡も禁止された。主治医である通っていたクリニックの院長も入院したのを知らなかった。
そして、驚いたことに、その医師が非常勤で通っていたクリニックの他の患者が廃人同然になって入院しているのだ。洗ってもらえないのだろう、歯もなくなっていて、廃人同然なのに車椅子に括りつけられていた。
病院も最悪だった。真夏に入院したのだが、冷房は職員のいるところにしか入っていない。そして、気に入らないことがあると職員が患者を恫喝する。
そのくせ、牢名主みたいな患者がいたのだが、その患者にはご機嫌取りだ。他の人には食事を受け取るときの列の並び方が悪いと恫喝するのに、その患者には席まで持っていった。牢名主が喧嘩をすると必ず相手が恫喝された。
また、ナースコールもなく、看護師も恒常的にサボッていた。看護師に何か頼んでも、ほとんど頼んだことをしてくれることがなく、どうなっているのか訊くと、自分が頼まれたわけではないから判らないと言う。
そんなことを言われても、ほとんどの看護師は靴の踵を吐き潰して茶髪にしていたり変形学生服みたいな白衣を着ていて名札などしておらず、誰に頼んだのか判らない。例の私の担当の医師も白衣といえど医療用のそれではなく料理人のものを着ていた。
夜も看護師が巡回(ラウンド)に来ることがなく、患者が急変して他の患者がナースステーションに知らせに行くのだが、サボって誰もいない。それで死んでいく患者を何人も見た。
私も、同じクリニックに通っていた車椅子に括りつけられた患者のように、変な薬を飲まされ発狂しそうだった。昨今の死ぬほどの苦しみより人為的に殺されようとする点で恐怖だった。
手は震え、皮膚が変になり顔は赤ギレのようになり、本当に正気を保つのに精一杯だった。他にも、普段とは変わらないのに、今日は何か変だから注射を打っておきますねと言われて眠らされた患者などもいた。
それを、両親は週に1回、片道3時間以上の時間を掛けて私の顔を見に来て、まるでオウム真理教の信者のように「良くなった! 良くなった! 素晴らしい先生だ!」を繰り返し絶叫した。私は、目に見えて体調がおかしくなるし、どこが良くなったの? と訊いたら「バカ面がマトモになった」と言った。
ここからが脱出劇であるが、病院でのプログラムに「作業療法」というものがあった。
小学校の教室2つ分くらいの広さの部屋に100人程度が押し込まれていて、作業などできる状態ではない。作業療法料を取るためだろう、何もできないのに車椅子に括りつけされていた患者も車椅子ごと押されて来ていた。
私は東京拘置所での生活を知っているが、作業療法室までの移動は縄で括りつけられ暴力を振るわれ、東京拘置所の職員が知ったら卒倒するような人権蹂躙の扱いだった。
そこで、私は、当時としては珍しくインターネットに繋がったPCを見付けた。普通にWebサイトを見ることはできなかったのだが、私は国の職業訓練でネットワークの研修を受けていたので、すぐにHTTPプロトコルで接続することができた。
当時は、まだBlog文化の黎明期で、私が開設していたBlogは1日3万PVほどの人気Blogになっていた。そこで私は現在の惨状を訴えた。両親の電話番号などを掲載して、説得するようにお願いした。
それまでのBlogを出版したいという出版社の人がいたのだが、私の頭がオカシイと思ったのか、入院したとのことで安心しましたとコメントが付いて、それ以降、消えた。
それでもBlogで繰り返し訴えた。Blogの内容を真剣に捉えてくれた人がいて、私の両親などに状況を説明する電話を架けてくれた人がいたようだ。当時は、まだ正常に機能していた、区の精神障害者支援センターにも電話があったという。
ある日、私は病院内にある警察署の取調室のようなところに呼び出された。まだGoogleがあったかなかったかという時代だったのだが、私のBlogが見付かったのだ。
やっと私のBlogでの呼び出しが功を奏し始めたときだったのに、「病院のプライバシーを侵害している、今日もコメントが60件以上も付いているから読まずにBlogごと削除しろ」と強要された。
明日は我が身だと思った。例の車椅子に括りつけていた人は、ついに訳も判らなくなり、ナースステーションの裏に隠し部屋があるのだが、そこのベッドにグルグル巻きに縛り付けられるようになっていた。看護師は慣れた口調で、あと3日かなぁ~ と言っていた。
そして、私も苦しんだ挙句に殺されると覚悟した。今、ネットで、その病院を検索すると、何回も不審死をを病死と届けて問題になっているそうである。そんな、ある日、医師がカンカンに怒って、やってきた。
医師は両親が私を退院させると言っていると腹を立てていた。やっとBlog読者からの声が両親に届いたのだろう。医師は、退院させて良いのですか! クレジットカードを取り上げないでいいのですか! 金を持たせて良いのですか! と両親に激しく怒鳴ったが、両親は良いと言った。
あれだけ医師に「素晴らしい!」を繰り返していたのに、どういうつもりなのか。母に訊くと「手も震えていたし視線も定まらなかったし、おかしいと思ったのよ」と言う。黙っていても公衆の面前で「素晴らしい!」を絶叫していた父に、あの医者、どう思う? と訊いたら、「そんなものは他人に訊くものではない」と言った。
退院してすぐ、私は、本来の主治医である通っていたクリニックの院長に会いに行った。え~! あんな軽症なのに、まだ入院してたの~! と素っ頓狂な声を上げて驚いた。軽症どころではない。
車椅子に括りつけられていた人は、老人ホームに入っている母親とアメリカに永住している兄しか身内がいないと言う。あの医師は、それを知っていて、そういうことをしているのかなと言うが、知っているから、そういうことをしたのだろう。また、私の退院時の処方箋を見て、これは減らすどころか毒を盛られたねと言った。
クリニックの院長は、口惜しいなぁ、口惜しいなぁと繰り返し言う。自分が行くわけにいかないから私に見舞いを装って見に行ってくれと言われたが、今度、あそこに行ったら、本当に殺されかねない。
そんなときのことがリアルに思い出されて、今日は朝から恐怖に苛まれている。これも、午前11時に訪問看護が来る前から書き始めて、苦しくては休んで、今は午後6時だ。書くのが苦しいので少し休もうと横になると別の苦しさが出てくる。
今日の命の危機は90%。なんで、他人から恣意的に苦しい思いをさせられながらまで生きていかなくてはならないのだ。意図的に苦しませて殺すというのは動物虐待以上ではないか。拷問以上だ。何をしたというのだ。ひと思いに殺してくれと言う気分だ。
他方、昔も今も私はBlogの読者に生かされているという感謝の念もあり、それがあるうちは希望を見失わないで済みそうでもある。しかし、また横になると胸が苦しい。困ったものだ。
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