遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

自己否定の塊。

 一昨日の通院時から自分には生きる価値のないという思いに囚われている。一昨日の通院時、私は死にたい気持ちが強くて、かなり無理をして通院した。今も、無理して酒を呷って、これを書いている。

 保健師さんに大人になったら誰も誉めてくれる人がいないんだから自分で自分を誉めてくださいと言われており、自分への御褒美だと迷いに迷った挙句、帰りにエクセルシオールに寄った。

 しかし、そこで死にたい気持ちが高まってしまい、どうしてだろうと思ったら自分はエクセルシオールで食事などする価値のない人間だと思ったからだ。以前、Facebookで高いな… と書いたら、「うん、高いね」と返信が付いたことも理由だ。

 心臓が針の筵の上で転がされている気がしたころ、起きるのもやっとで、1日1食、しかも両親に借金を負わされコンビニの300円の弁当を食べるのがやっとというときがあった。

 しかし、そのときも、両親に「毎日ゴロゴロしていて3食豪華な買い食いをしている」と詰られた。もっとも、そう両親に吹き込み、私に吹き込む輩がいたからではあるが。そして私には300円の弁当を食べる価値すらないと思い込ませた。

 Twitterの(Blogアカウントではなく)個人アカウントの方でツィートしているので貼らないが、ここ数日、不安・死にたいという気持ちが強く、その旨をツィートしている。しかし、自らツィートしておいて、自分の過去ログを読んで初めて自覚した次第。

 Twitterで自ら盟友(同志だったかも…)といってくれる山姥さんに助けてもらっているのは書いたとおりだが、昨日はPCの前から離れて自分のことをするという。やっぱりそうなのだ、自分のことをするのが当然だし、しょせん、自分の相手なんて面倒なことなのだ、そう思った。

 なので、今日、その旨、お詫びを言ったが、否定された。ここ数日、弱気というか自己否定的だと言われた。そんなふうには全く思っておらず、むしろ進んで私のことをしてくれているという(いくら謙虚になっても額面通りに取るにはおこがましいが)。

 最近、親の亡霊に囚われているようである。友達ができると、親は「ツルむのは不良の始まり」と言って友人をdisり、嫌がらせをし、それで交友が途絶えると「お前が駄目だから嫌われるんだ」と言った。

 また、こんなこともある。私は子供のときから芸術分野が得意で、よく県展などに入選していたのだが、「こんなみっともないものを公衆の面前に晒しやがって」と言って入賞作をビリビリに破いた。

 そんな、親に思わされた「私には価値がない」が増殖して、私なんか生きる価値がないというところまで、昂じているようである。

 

P.S. 今日は、そんな山姥さんとのTwitterの遣り取りの中で、互いに自己否定について書きましょうということで自己否定について書いた。山姥さんが書いたものは、こちら。

www.yamauba.work

 

※協調路線を取るために今日は公開を3時間、早めております。