遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

孤立無援だったころの話。

 小説の執筆を勧められたので、小説のタッチで書いてみたい。

 今は保健師さんにベッタリ世話になっているが、保健師さんという存在を知らなかった頃がある。今のようにSNSも発達しておらず(おそらくインターネットは個人サイトの時代)、誰も頼る人がいなかった。

 初めて保健師さんという存在を知ったのは、母の紹介だった。もう、障害基礎年金で生活をしていたころだと思う。50万円のカメラレンズを48回払いで買って怒られた。「このレンズが幾らの金を生むのですか」と言われた。そして、母のことだから、私には、そういう保健師さんにだけ接触させるようにした。

 保健師さんという相談ができる人ができたと思い、他の保健師さんになっても電話をするようになったら、母から頻繁に電話が架かってくるようになった。「また保健師さんに電話をしたでしょ!」と、私に都合が良く、母に都合が悪いことを言う保健師さんに相談することは禁止された。

 母の言い分では電話をすることで保健師さんの時間を奪っているというのだが、それなら、なぜ私が電話をしたことを知っているのだ? 自分も電話しているからではないか。当時は、そんなことまで頭が回らなかった。

 当時の主治医には障害基礎年金は勧められたが、障害者手帳の存在も教えてもらっておらず、母が保健師さんに連絡を取るようになるまで行政のサービスには繋がっていなかった。もし、もっと早く、母などの邪魔もなく保健師さんの存在を知っていたら、大きな自殺未遂はしなかったのではないかと思う。